ひろゆき・ホリエモンはなぜ間違ってしまうのか?専門家が陥る大きな罠
ひろゆき・ホリエモンはなぜ間違ってしまうのか?専門家が陥る大きな罠
転載元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1701487284/
ひろゆき氏いわく、
「延命治療は保険適応外で、やりたければ自費で」
との事である。
世界を見れば確かにそういう対応を取っている国も多いわけで、この発言は一件合理的に思える。
また、ホリエモン氏はこう言っている。
「新型コロナワクチン、これは人類がDNAをハックした素晴らしき記念日。こんな最先端のテクノロジーをただで受けられる。僕は喜んで打ってますよ」
たしかにmRNAを使って新しいワクチンを創出するというのは、新しい技術。人類の叡智かもしれない。
ただ、本当にそこまで信じても良いのだろうか?
僕はこのお二人の発言の根底に「専門家が共通して陥ってしまう大きな罠」が存在すると思っている。
今回はその話をしてみたい。
究極の介護は「現場で悩むこと」
先日、介護界で注目のエキスパート、中迎聡子氏と対談した。
その時彼女はこう言っていた。
他の施設で介護経験のある方がうちで働き始めると、多くの人が戸惑うんです。うちには決まった業務やマニュアルがないから。
おじちゃん・おばあちゃん一人一人の思いや状態は、その日その時でまったく別のもの。朝ごはんをちょっと遅く食べたい人もいるだろうし、今日はお風呂に入りたくないという人もいるかもしれない。その場その場で状況を判断し、悩んで考えて、臨機応変に対応しなければいけない。だから決まった業務やマニュアルはかえって邪魔なんです。
でも、決まった業務に慣れている新人スタッフはマニュアルがないと不安に思い、「私がこの職場でキビキビ動けないのはマニュアルがないから」と思ってしまう。そしてマニュアルを作ってくれと私に言ってくるんです。介護施設はじめて20年、私はこのような声と戦ってきました。マニュアルを絶対に作らないことを徹底してやってきたのです。マニュアルを作った途端にスタッフが現場で考えなくなってしまう、悩まなくなってしまうからです。
もう一人の介護の達人・加藤忠相氏も著作「あおいけあ流介護の世界」の中で「マニュアルで介護はできない」という言葉を用いて同じことを表現されていた。
スペシャリストとジェネラリストの相違点
冒頭のひろゆき氏・ホリエモン氏の発言と、介護界のエキスパートお二人の発言。
両者は非常に対照的である。
前者のお二人は、「保険の対象から外すこと」や「新型コロナワクチン」というシステム改善や新技術など「何らかのマニュアル的法則」が世界を変えてくれると言っている。
一方、後者のお二人は、そうしたマニュアル的な対応では世界は変わらない、その場その場で悩んで考えろ、と言っているのだ。
両者の違いはどこにあるのだろうか?
ここに「スペシャリスト」と「ジェネラリスト」という補助線を引いてみるとわかりやすいかもしれない。
スペシャリスト(専門家)の世界は、「専門」というだけに比較的小さな世界を扱い、その中で成立する法則や理論を語る世界観である。
その小さな世界観の中では、線形的(linear)な論理展開が可能なことが多い。
物理の世界では、物を投げれば放物線を描いて決まったところに落ちる。それは物理の法則に従って、方程式に数値を代入すればその通りに物事が進む、線形的な世界観なのである。
感染症専門家もそうだ。ワクチン・マスクなど感染を制御されているとされていたものを社会に実装すれば、感染は収束する。線形的な思考で考えれば、そのとおりに進むはずだった。
しかし、現実社会は物理法則のように線形的に動くものではない。
物を投げても風が吹けば落下点は変わるし、ワクチン・マスクで感染が制御出来たのか、も未だに世界では議論が続いている。